朝。まだ隣で眠っている姉崎を起こさないように、俺はベッドから降りて着替える。
日課のランニングのため、玄関から一歩足を踏み出した。
はずだった。
「・・・ちょっと、ヒル魔くん、なんで止まってるの!?」
「・・・ア?」
朝ではない。あれは夕日。
そして目の前には赤いTシャツを着て走る面々。その後ろに併走する自転車が今は止まっている。
こちらを伺い見る顔は今よりもずっと若い姉崎。
・・・なんだ?
俺は足元を見た。さっき履いたのとは違う靴。自らも同じTシャツを着ていて、幽かに弾む息は今の今まで走っていたからだと知れる。
「もー、どうしたの? 置いてっちゃうわよ?」
自転車がこちらに向かってくる。やっぱり若い。
そしてこいつがここにいて、俺が走り込んでるということは、これは高校の時、か?
なんてリアルな夢・・・いや、夢か、これは?
夢にしては現実感がありすぎる。俺は咄嗟に目の前の姉崎の腕を掴んだ。
「・・・どうし、たの?」
不自然に途切れる声。心底心配そうな色を浮かべた、青い瞳。
触れる手も温かく、これは夢ではないかと思っていたが、違う。
これは現実だ。高校二年、遠くに見える連中の面子を見れば、ムサシもいるから多分関東大会中。
俺はぱ、と手を放す。
「・・・相変わらず脂肪たっぷりで冷たい腕デスコト」
「なっ!? ちょっと、人が心配してここまで戻ってきたのに何その台詞!? 信じられない!!」
一気にまくし立てられ、俺はケケケと笑って走り出した。
ああ、やっぱり身体は軽い。
今の俺も鈍ってるとは言わないが、やはりフルに身体を動かしていたこのころとは違う、ということだろう。
なんでこんなことになってるのか全く判らない。
だが、とりあえず過去の自分だったらやるだろうことをやるしかない。まあ、そのうち戻るだろう。
ペースを守って黒美嵯川の土手を走って部室に戻る。
ロッカールームもまだ新しい頃だ。懐かしいな、という感覚は久しぶりだ。
「・・・なんか、今日のヒル魔さんおかしくない?」
「ああ、なんだか静かだよな。なんかあったのか?」
「さっき走ってる途中からだよね。急に止まっちゃって」
ひそひそと話しているつもりらしい連中の横をわざと黙って通り過ぎる。
逆に恐怖に固まる様が後ろでありありと感じられて俺は内心舌を出した。
ユニフォームに着替えて部室に顔を出し、カレンダーを確認する。
ああ、この時期か。
王城の学園祭を明日に控え、とりあえず練習だけはしてる頃だ。
巨大弓のことか・・・今の俺は覚えてるが、昔の俺にそれは伝えるべきじゃない。もがいて必死になってやっと手に入れるという感覚、あれを過去の俺に易々と打開策を教えたが為に失わせるのは惜しい気がした。
カレンダーを前に佇む俺の背後から、聞き慣れた声。
「・・・ヒル魔くん、あの、本当にどうしたの?」
振り返るとタオルを抱えた姉崎が立っている。
「なんだ、姉崎」
「・・・・・・・・・ね、熱あるんじゃない?」
ア。
しまった、このころはこいつとは付き合ってなかったし、姉崎と呼ぶことはなかったんだったか。
このころの俺の記憶では、こいつのことは気になっていたがクリスマスボウルが最優先、だった。
「ホー? やっぱり糞マネと呼ぶ方がよろしいんデスネ?」
「いやいやいやいや! それはないけど! でもそう呼ばれたことなかったから・・・!」
焦る姉崎をしげしげと眺める。ああ、こいつもこの頃は恋愛云々じゃなかったんだっけな。
今も昔も変わらない青い瞳。今の姉崎はすっかり女だが、このころの姉崎はまだガキだったんだな。
なんだか懐かしい、という感覚が先立ちすぎて落ち着かない。とりあえず俺は椅子を引いてどっかりと座る。
「ヒル魔くん?」
「コーヒー」
「珍しいね、本当に・・・」
練習前に飲むことはなかったからな。淹れさせたコーヒーを片手に王城の資料を見る。
だが、これ以上見るときっと余計なことを書き加えたくなるだろう。
俺はそっと書類を置いてコーヒーを飲み干した。
その間も姉崎はこちらを眺めている。
やはり熱があるのだと疑っているようだ。まあ、そうだな。
あの当時の俺はあんな迂闊じゃなかっただろう。
今だって迂闊じゃないが、姉崎の前ではちょっと緩んでいる自覚がある。
「熱なんてネェぞ」
「どうかしら。あるんじゃないの?」
やっぱり疑っている姉崎はカップを片づけるべくこちらに近寄ってきた。
「手ェ出せ」
「?」
そう言えばすぐ手を出す。やっぱり警戒心がねぇんだよ、お前。
ぺた、とその手を額に当てさせてやると、目に見えて姉崎は硬直した。
「熱なんてネェだろ」
「い、・・・うん、判った、判ったからちょっと、手、放して」
「別に取って喰ったわけじゃねぇし」
けろりと言ってやるとそりゃそうだけどそういうことじゃなくて、と聞き慣れた慌ただしい言い訳が耳に入る。
「お前はいつもそれだな」
「え?」
おっとまずい。また余計な失言を。
俺は立ち上がると、マシンガン片手にグラウンドに向かうことにした。
久々にやったアメフトだが、身体が当時のままだけあって多分その辺はばれなかっただろう。
部活が終わった後、俺はデータベースを作っていた。
書類の処理自体は昔やったことがあるものだけに早かった。
ただハード自体の処理速度が遅い。
今と昔じゃ技術が違うからこれは仕方ないだろうが、この当時の最速ってこんなもんだったか。
ちらりと顔を上げると、姉崎が部誌をまとめていた。
整った字が紙面を埋めていく。
「ヒル魔くんが今日は一段と変でした、と」
「そんなくだらねぇこと書くんじゃねぇよ」
ケ、と呟いて俺はパソコンを閉じた。
「もう終わった。帰るぞ」
「え? 早いね。私の方はもうちょっとかかる」
「そうか」
「・・・やっぱりヒル魔くんがおかしいです、って書いておくわ」
肩をすくめ、姉崎はペンを走らせる。
相変わらず細い首、肩。胸はこの当時から結構あった。
スタイルは上々、顔も上々。性格は少々難あり、だがそこが俺は一番気に入っていたはずだ。
もうこのころは糞保護者気取りは抜けてたから、純粋にマネージャー業務に専念していた。
そういやこいつが俺のことを恋愛対象として見出したのはいつ頃だったか。
無自覚なのはもっとずっと前からだったが、自覚ありになったのは・・・クリスマスボウルだったか。
いや、もうちょっと前だったか。
どちらにせよ、この頃こうやって気になっていた女と二人で居残っていた割には随分禁欲的な生活をしてたんだな、と我ながら感心する。
「ヒル魔くん、何見てるの?」
居心地が悪そうなので、あえて悪人顔で笑ってやる。
「お前」
「・・・なんか怖いよう」
怯えたような顔をする姉崎に、俺はため息をつく。
この女の天然っぷりにあの当時の俺もかなり苦労していたのを今思い出した。
「お前は俺を悪魔だ人外だと思ってるようだが、俺も人間だ」
「・・・そうなの?」
そこで疑問形なのがまたあほらしい。
「ちゃんと欲も備わった人間だ。その辺、テメェは自覚がなさ過ぎるんだよ」
姉崎、と呼びかけそうになって止まる。姉崎はふうん、と感心しているだけのようだ。
だから男と二人で警戒心もなく残るのはどうかと思う、という俺の内心の忠告は全く聞こえていないようだ。
「俺に限らず、男を甘く見るんじゃねぇ」
「・・・今日のヒル魔くん、優しいね」
「アァ?」
「ふふ、なんか嬉しい」
ほんのりと頬を染めて姉崎が顔をほころばせた。
唐突に思い出す。
そうだ。
姉崎はこの頃自覚したんじゃなかったか。
静かに立ち上がり、姉崎に手を伸ばそうとして。
「・・・ア?」
いつもの玄関先の光景。俺は腕時計を確かめる。
そこにある時刻は、玄関から足を踏み出したときと僅かも変わっていなかった。
振り返ると、見慣れた我が家。
ランニングを取りやめ、俺は室内に戻る。
まだ眠っている姉崎の顔を覗き込むと、あの時からは年を経た顔が毛布の隙間から見えた。
それにどうしようもないほど安堵する。
「姉崎」
「・・・ん? ヒル魔くん? どうしたの・・・?」
半ば寝ぼける姉崎に、問答無用でキスをする。
唐突に落とされたそれに一瞬驚いたように目を丸くして、その後目を閉じた。
「・・・おはよう」
長く唇を貪って解放すると、上がった息もそのままにふんわりと笑って律儀に挨拶。
「オハヨウゴザイマス。で、イタダキマス」
「え!? ちょっと、どうしたの? ヒル魔くん」
「どうもしねぇよ」
「だって朝っぱらから、もう!」
「今更朝だとか関係あるか」
「そりゃそうだけどそういうことじゃなくて!」
やっぱり聞き慣れた文句に、俺はひっそりと笑う。
あの時の姉崎も何にも代え難い存在だったが、こうやって腕に抱ける今の方がいいと言い切れるなんて。
結局文句は言いつつも受け入れることに決めたらしい姉崎の腕を背に感じて、俺は自分の幸せを噛みしめた。
***
すみれ様・コメ様リクエスト『ヒル魔の意識だけタイムスリップ(過去)』でした~。何この甘い人。甘いですよ!
多分もうちょっとヒル魔さんの焦る様とかまもりちゃんの危なっかしい感じとかが書ければよかったんですが、ヒル魔さん年取って丸くなった設定にしたら(ヒルまも一家とは別です)なんだか別人になっちゃいました・・・。
リクエストありがとうございましたー!!
すみれ様・コメ様のみお持ち帰り可。
リクエスト内容(作品と合っているかどうか確認のために置きます)以下反転して下さい。
すみれ様
『結婚後、朝ヒル魔さんが出勤したときなんかに足元がグラリ。気がつけば懐かしい制服を着た自分。高校時代まもちゃんとくっ付く前な時間にタイムスリップ←意識だけ。まもちゃんを名前でうっかり呼びそうになったりとか。ヒル魔さんからまもちゃんへのベクトルが強いといい。それでまもちゃんがふらふらしてるのを見てイライラしてればいい← 自分の時代じゃ自分のですからね』うっかり名前を呼んでしまうわ、あんまりイライラしないわで、予想外に大人で甘いヒル魔さんになってしまいました・・・。ど、どうでしょう?
コメ様
『子持ちヒル魔と現代ヒル魔(ヒルまも恋人未満)の意識が入れ代わるパラレル(各々で見たいです)』先にすみれ様の過去編をリクエスト頂いていたので、過去編は別物になってしまいました。すみません・・・。未来編はヒルまも一家が出ます!
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同人歴は読み専門も含めると二桁は楽勝。
よろしくお願いいたします。
【裏について】
閉鎖しました。
現在のところ復活の予定はありません。